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炎は静かに燃え続ける
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TOP CAREER
吉田 輝幸
東京都

FOCUS POINT

競技パフォーマンス
健康・機能改善
ダイエット・ボディメイク
調整系・ボディワーク
1 瞬発力系の向上
1 持久力系の強化
1 競技特化トレーニング
CATEGORY

ダイエット・ボディメイク

ボディライン
ボディラインの美しさを重視した指導
ダイエット指導
食事指導を含む減量のサポート
バルクアップ
筋肉量を増やすための指導
コンテスト対策
大会出場者向けの指導/サポート

健康・機能改善

姿勢/歪みの改善
不良姿勢・骨格バランスの最適化
痛み/不調の改善
肩こり・腰痛などの改善を目的とした対応
運動機能の維持
中高年に向けた健康トレーニング
リハビリ後サポート
怪我・手術後などの回復期支援トレーニング

競技パフォーマンス

瞬発力系の向上
アジリティやスピード系能力の強化
持久力系の強化
持続性パフォーマンスや疲労耐性の改善
競技特化トレーニング
スポーツごとの特性に合わせた専用指導
学生アスリート指導
成長期の運動能力向上と怪我予防の両立

調整系・ボディワーク

ヨガ
呼吸・柔軟性・心身のバランス向上
ピラティス
インナーマッスル・姿勢制御力の強化
ボディケア/ストレッチ
徒手による可動域改善やケア
産前産後ケア
妊娠期・出産後のボディサポート

PROFILE

株式会社PCP代表取締役社長。2009年創業。exos日本正規ディストリビューターとして、アスリートから経営者まで25年以上にわたり指導。パーソナルトレーニング事業に加え、企業内トレーナーを派遣するオフィスコンディショニング事業を展開。

LICENSES

MBA、CSCS(ストレングス&コンディショニングスペシャリスト)、TPIゴルフフィットネスインストラクター、パワープレートマスタートレーナー、栄養コンシェルジュ®レベル2、中高保健体育1種教員免許など多数保有。

MEDIA

NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビ・テレビ朝日など多数のテレビ番組に出演。「月刊EXILE」「Body+」「週刊パーゴルフ」誌で連載を持ち、新聞・AbemaTVでも活躍。著書11冊。
IDENTITY
トレーナーインタビュー
吉田 輝幸のストーリー画像 1
これからも淡々とやってくだけ
辰巳の朝は、どこか独特の緊張感がある。湾岸特有の乾いた空気の中、PCP辰巳店には静かな熱気が漂っていた。鏡張りのトレーニングスペースに朝の光が差し込み、器具の金属音が小さく響く。その中央で、吉田輝幸は淡々とセッションの準備を進めていた。 元EXILEの専属フィジカルトレーナーとして知られ、多くのアスリートや経営者から支持を集める存在。だが、初対面の印象は驚くほど穏やかだ。威圧感もなければ、自ら実績を語り立てることもない。 「これからも淡々とやってくだけですよ」 取材の冒頭、吉田はそう言って笑った。 何気ない言葉だった。しかし、話を聞き進めるほどに、その「淡々と」という言葉の意味が変わっていく。怪我、挫折、独立、極限の生活、そして裏方として生きる覚悟。華やかなキャリアの裏には、表に出ることの少ない長い時間が積み重なっていた。 吉田の人生は、スポットライトの中心ではなく、その少し後ろ側で続いてきた。
重い中敷きを入れて走った少年
埼玉県川口市。少年時代の吉田は、サッカーに夢中だった。ポジションはセンターバック。小学生の頃から選抜チームに選ばれるなど、運動能力は際立っていたという。 転機が訪れたのは、中学校へ進学するタイミングだった。 進学予定の学校には、いわゆる"やんちゃな先輩"が多いという噂があった。そんなとき、陸上部の教師から声をかけられる。 「このまま行ったらヤンキーになるぞ。もったいないから陸上やったらどうだ」 冗談交じりのような一言だったが、吉田は陸上へ進んだ。 当時の吉田には、明確な夢があったわけではない。ただ、走れば走るほどタイムが縮まる感覚が面白かった。 「やった分だけ結果が返ってくるのが単純に楽しかったんです」 今のようにSNSもなく、スポーツ科学の情報も簡単には手に入らない時代だった。だからこそ、吉田は自分で考えた。 スニーカーの中に重い中敷きを入れる。練習後も住宅街を走る。速くなるために必要だと思うことを、自分なりに試し続けた。 さらに、中学2年の終わり頃には、埼玉県内の有力指導者のもとへ自ら電車で通い始める。親に連れられて行ったわけではない。「もっと速くなりたい」という気持ちだけで動いていた。 その努力は大きく実を結ぶ。 中学3年時、100メートルと走り幅跳びで埼玉県チャンピオンに。県大会レベルだった選手が、一気に頂点まで駆け上がった。 「環境が良かったというより、自分から探しに行ってた感覚でしたね」 与えられたレールを進むのではなく、自分で道を探していく。その姿勢は、今振り返るとすでにこの頃から出来上がっていた。
吉田 輝幸のストーリー画像 3
「もう終わった」と思った日
スポーツ推薦で進学した埼玉栄高校では、現実の厳しさを痛感した。 全国から有力選手が集まる環境。そこにいた吉田は、自分の身体の細さに衝撃を受けたという。 「本当にガリガリだったんですよ。女の子に間違えられるくらいで」 ベンチプレスのバーさえまともに持ち上がらない。これまで通用していた"速さ"だけでは戦えない世界だった。 転機になったのは、先輩から勧められたウエイトトレーニングと栄養管理だった。筋力トレーニングを始め、プロテインを摂取し、身体づくりを徹底する。すると、記録は劇的に伸び始めた。 高校2年の終わりには、再び県トップクラスへ返り咲く。 だが、絶頂の直前に悲劇が起きる。 インターハイ予選を1か月後に控えたある日の練習。全力疾走中、突然「バチンッ」という音が響いた。 重度の肉離れだった。 「あの瞬間は、本当に終わったと思いました」 地面に倒れ込み、これまで積み重ねてきた努力が一瞬で消えていく感覚に襲われたという。 そんな吉田を救ったのが、アシックスのトップトレーナーたちだった。監督に勧められ、足を引きずりながら治療へ向かった。 そして、その帰り道だった。 「行きは歩けなかったのに、帰りは歩けたんですよ」 衝撃的な体験だった。 「トレーナーってすごいなって。本気で思いました」 自分自身が"救われた側"になった経験。その感覚が、吉田の進路を大きく変えていく。 リハビリを重ね、インターハイ予選には間に合った。全国大会ではリレーのアンカーとして3位入賞を果たす。 ただ、吉田の中ではすでに次の関心が芽生え始めていた。 「自分が速くなること」だけではなく、「人を支えること」への興味だった。
表舞台ではなく、裏方として生きる
国士舘大学体育学部へ進学後も、吉田は競技を続けた。しかし怪我は繰り返した。 一方で、別の才能が現れ始める。 独学で学んだトレーニング理論を同級生に共有すると、彼らのパフォーマンスが目に見えて向上していった。日本チャンピオンになる選手まで現れたという。 「自分が世界で活躍できなくても、活躍できる人を支えたい」 その思いが明確になったのは、この頃だった。 競技者として前に立つのではなく、裏側から支える存在になる。そう決めた吉田は、さらに知識を求めていく。 大きな転機になったのは、世界的トレーナーであるマーク・バーステーゲン氏との出会いだった。 アメリカへ渡った吉田が現地で目にしたのは、日本とはまったく異なるトレーニング文化だった。 当時の日本では、「筋肉を大きくする」ことが重視される傾向が強かった。しかしアメリカで主流だったのは、"動き"を鍛えるファンクショナルトレーニングだった。 「目からウロコでした。身体を大きくするためじゃなく、動きを良くするために鍛えるんだって」 走る、止まる、ひねる、跳ぶ。競技動作そのものを高める発想に、吉田は強く惹かれた。 「これを日本でも広げたいと思ったんです」 帰国後は所属先でトップトレーナーとして実績を積み、多くの指導を担当した。しかし次第に、会社の方向性とのズレを感じ始める。 身体を大きく見せることを重視する考え方と、動きを改善することでパフォーマンスを引き出したい自分の考え。その溝は、少しずつ大きくなっていった。 そして2007年、独立を決断する。 だが、その代償は決して小さくなかった。
吉田 輝幸のストーリー画像 5
芝生の上で過ごした日々
独立後、仕事はすぐには軌道に乗らなかった。 収入は不安定になり、生活は急速に厳しくなっていく。漫画喫茶を転々とし、東京体育館の階段脇の芝生で寝ていた時期もあった。 「半年くらいですかね」 吉田は淡々と振り返る。 不思議なのは、その話し方に悲壮感がほとんどないことだ。 もちろん苦しかったはずだ。しかし、「辞めようとは思わなかった」という。 「自分が信じたものをやるしかなかったんですよね」 理論だけではなく、自分自身の人生で選び取ってきた感覚。その強さが、吉田の言葉にはある。 当時を振り返っても、誰かへの恨みや不満を口にすることはなかった。ただ、自分のやるべきことを続ける。その姿勢だけが一貫している。 後に語った「淡々とやる」という言葉は、もしかするとこの時期に形になったのかもしれない。
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ÜSAのテーピングが消えた
転機は、人とのつながりから訪れた。 吉田の技術を信頼するアスリートや経営者たちが、少しずつ彼を支え始めた。赤坂や恵比寿のジムを間借りしながら活動を再開すると、口コミで予約が増えていく。 そんな中、知人の紹介をきっかけに、EXILEのÜSAと出会う。 当時、ÜSAは慢性的な怪我に悩まされていた。ライブ中も身体には何重ものテーピングが巻かれていたという。 吉田はファンクショナルトレーニングの考え方をベースに、身体の使い方そのものを改善していった。すると、少しずつ変化が現れ始める。 巻かれていたテーピングが、一枚ずつ減っていったのだ。 吉田にとって、それは単なる成功事例ではなかった。自分が信じてきたアプローチが、確かな形で結果につながった瞬間でもあった。 その後、EXILE全体のサポートを任されるようになり、2008年には専属フィジカルトレーナーに就任する。 以降、数多くのアーティストやアスリートを支える立場となった。 ただ、本人は今も「自分は裏方」と繰り返す。 「主役は選手やアーティストなんで」 その考え方は、一貫して変わらない。
「1社に1人のトレーナーを」
現在、吉田が特に力を入れているのが、ビジネスパーソンへのコンディショニング支援だ。 背景には、経営者たちを指導する中で感じたある実感がある。 「ビジネスパーソンの方が、アスリートより長い時間戦っていますから」 トップアスリートには、専門のトレーナーや栄養士、医療スタッフがつく。一方で、多くのビジネスパーソンは、不調を抱えたまま働き続けている。 その状況に課題を感じた吉田は、40代でグロービス経営大学院のMBAプログラムへ進学した。 トレーナーとしてだけではなく、経営や組織の視点からも身体づくりを考えたい。その思いがあった。 海外企業では、社員の健康を企業価値の一部として考える文化が広がっている。しかし日本では、まだ「健康管理は自己責任」という感覚が強い。 だからこそ、吉田は言う。 「1社に1人、トレーナーがいる社会を作りたい」 それは単なる理想論ではない。働く人の身体を守ることが、生産性や企業そのものを支えるという考え方だ。 大谷翔平が欠場すれば、球団に大きな損失が出る。アーティストがツアーを中止すれば、多くの人が影響を受ける。 それなのに、一般企業では「誰かが倒れても代わりがいる」という感覚が、どこか当たり前になっている。 吉田は、その価値観を変えたいと考えている。
吉田 輝幸のストーリー画像 8
淡々と、それでも前へ
取材の最後まで、吉田は自分を大きく見せようとはしなかった。 若い頃に見た挫折も、芝生の上で過ごした時間も、EXILEの舞台裏で支え続けてきた年月も、すべてを特別な物語として語ろうとはしない。 「これからも淡々とやってくだけですよ」 その言葉だけが残った。 ただ、その"淡々と"の中には、長い時間をかけて積み重ねてきた経験と覚悟が確かに宿っている。 表に立つ人を支え続けること。誰かが本来の力を発揮できるように整えること。吉田輝幸は、その役割を静かに引き受け続けている。 見えやすい場所で燃える炎ではない。 だが、その熱は確かに存在している。
吉田 輝幸のプロフィール画像
吉田 輝幸
株式会社PCP代表取締役社長。2009年創業。exos日本正規ディストリビューターとして、アスリートから経営者まで25年以上にわたり指導。パーソナルトレーニング事業に加え、企業内トレーナーを派遣するオフィスコンディショニング事業を展開。

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