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勝ち負けの間近にいること
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TOP CAREER
牧野 講平
東京都

FOCUS POINT

競技パフォーマンス
ダイエット・ボディメイク
健康・機能改善
調整系・ボディワーク
1 競技特化トレーニング
2 瞬発力系の向上
2 持久力系の強化
2 学生アスリート指導
CATEGORY

ダイエット・ボディメイク

ボディライン
ボディラインの美しさを重視した指導
ダイエット指導
食事指導を含む減量のサポート
バルクアップ
筋肉量を増やすための指導
コンテスト対策
大会出場者向けの指導/サポート

健康・機能改善

姿勢/歪みの改善
不良姿勢・骨格バランスの最適化
痛み/不調の改善
肩こり・腰痛などの改善を目的とした対応
運動機能の維持
中高年に向けた健康トレーニング
リハビリ後サポート
怪我・手術後などの回復期支援トレーニング

競技パフォーマンス

瞬発力系の向上
アジリティやスピード系能力の強化
持久力系の強化
持続性パフォーマンスや疲労耐性の改善
競技特化トレーニング
スポーツごとの特性に合わせた専用指導
学生アスリート指導
成長期の運動能力向上と怪我予防の両立

調整系・ボディワーク

ヨガ
呼吸・柔軟性・心身のバランス向上
ピラティス
インナーマッスル・姿勢制御力の強化
ボディケア/ストレッチ
徒手による可動域改善やケア
産前産後ケア
妊娠期・出産後のボディサポート

PROFILE

2003〜 森永製菓株式会社inトレーニング ラボ テクニカルディレクター2008〜 日本オリンピック委員会 医科学強化スタッフ2013〜 日本フェンシング協会 医学委員 トレーナー2015〜 日本コンディショニング協会 理事2021〜 株式会社R-body テクニカルアドバイザー2024〜 日本トレーニング指導者協会 キャリア支援委員、広報・企画委員2024〜 株式会社YumiCoreBody テクニカルディレクター

LICENSES

CSCS, NSCAジャパン マスターコーチ, NASM-PES, NCA-CPT, EMI-CPY

MEDIA

浅田真央 POWER&BEAUTY 小学館ウイダー体幹リンクトレーニング 学研関節力トレーニング 講談社横隔膜呼吸で「やせ体質」になる 池田書店野球のコンディショニング ベースボールマガジン社
IDENTITY
トレーナーインタビュー
牧野 講平のストーリー画像 1
5月の夕暮れのお台場
5月の夕暮れどき、お台場のオフィスビルにエレベーターで上がると、そこだけ空気が変わる。森永製菓inトレーニングラボ。フロアに広がるのは測定機器と研究資料の気配、そしてアスリートの汗の記憶だ。 牧野は穏やかに、でも目の奥に何かを宿してそこに立っていた。20年以上、日本トップアスリートの「間近」に立ち続けてきた人間の静けさ、とでも言えばいいだろうか。 「現場に行かない人もいますよ」と彼は言う。「ナショナルトレーニングセンターのトレーナーでも、練習を見に来ない方もいます」 言葉に責める色はない。ただ、信念を感じる。
運動小僧が決めた夜
札幌育ちの少年は、とにかく外にいた。川でビニール袋を使って魚を獲り、トンボを追いかけ、バッタを捕まえた。少年野球に熱中していたが、肘を壊して引退した。それでも足は速く「三盗まで自由に行けた」と少年時代を懐かしむように笑う。 転機は小学5年生のある夜。「スポーツトレーナー」という職業の特集番組を目にした親から、「こっちに向いているんじゃないか」と声をかけられたのがはじまりだった。 「名前がスポーツトレーナーだからかっこいいじゃん、みたいな感じで決めちゃったんですよ」 その軽さが、20年以上のキャリアの出発点だ。しかし振り返れば、その「軽さ」はひとつの才能でもあった。中学で陸上を始め、東日本代表まで上り詰めた。高校でハードルに転向し、北海道記録を樹立した。それでも本人に選手を目指す気持ちはなかった。「裏方でやっていきたい」という感覚は、早い段階から持っていた。 父は大学教員で、海外経験が豊富だった。単身でイギリスやオランダに赴任することもあり、家族で会いに行く機会もあった。小さい頃から「日本の大学よりも海外の方がいい」と言われ続けた。それが自然に刷り込まれて高校を卒業した牧野は、アメリカ西海岸の人口9,000人の小さな大学町へと旅立った。
牧野 講平のストーリー画像 3
成田のロビーで立ち止まった
最初の1年はほとんど遊んでいた。ビリヤードにボウリング、週末のホームパーティー。語学学校を終え短大に入っても大差なかった。「しょうもない人生を送ってた」と本人は笑うが、そこに自嘲はない。ただ、事実として語る。 転機が訪れたのは2001年9月11日だった。 夏休みを終えアメリカに戻るため、叔父の家に前泊していた夜。テレビにニューヨークのビルへ突っ込む飛行機の映像が映し出された。2機目が突っ込んだとき、それがテロだと分かった。全空港が欠航になった。 単位を落としたくない。空港が再開した瞬間、牧野は真っ先に搭乗した。物々しい警備の中、銃を持った兵士たちの間を通り抜けながら、ふと立ち止まる感覚があった。
「俺、アメリカに何しに来たんだっけって」
スポーツトレーナーになりたくて来たはずが、何もしていなかった。その気づきは静かだったが、深かった。以後の姿勢が変わった。解剖学は全て90点以上でなければ単位を落とす。夜中まで勉強し、翌朝また学校へ向かう日々。学校のジムで2,500時間の実習をこなしながら、NFLやメジャーリーグのサマーキャンプにインターンとして潜り込んだ。「いつかこういう世界に入りたいな」という思いが、初めてリアルな輪郭を持ち始めた瞬間だった。
牧野 講平のストーリー画像 5
「牧野だけど、どうだ」
帰国後、2003年に森永製菓に入社した。北海道枠として採用され、高校のスポーツチームを営業で回る日々。最初の5チームからのスタートだった。それが口コミで広がり、1人で30チームを担当するようになった。 仕事はうまくいっていた。だが、心の底に澱みのように残っていたものがあった。ビザの問題で叶わなかったアメリカでのキャリア。もう1度挑戦したい気持ちが3年間ずっと消えていなかった。やり残したことがある。そう感じながら、牧野は退職を決めた。3月末での退社を心に決め、そろそろ上司に告げようかというタイミングだった。 「紙切れ1枚渡されたんです。『浅田真央契約記者会見、担当トレーナー・牧野』って書いてあって」 聞いていない。午後から打ち合わせだから来い、と言われた。気づいたら記者会見に出ていた。自分が担当トレーナーになっていた。辞められなくなった。 「社内で『牧野だけど、どうだ』っていう会議が多分あったと思うんですけど、いいんじゃないみたいな感じで(笑)」 その笑いの裏に、深い何かが隠されている気がした。
体重が20キロ減った
浅田真央は当時16歳だった。最初は3日間の「お試し」だった。気づいたら1週間になり、2週間になり、「引越してきて」と言われた。帰り道に不動産屋に寄って、彼女のマンションの隣の部屋を契約した。 午前2時間練習、昼食を挟んで午後2時間練習、休憩後にまた1時間。その後トレーニング、夜はケアで1日が終わる。週7日、それを繰り返した。飛行機に乗っている時間だけが休憩だった。 だが、最初の試合シーズンで浅田は優勝できなかった。矛先は、新しく加わった牧野へと向いた。ロシア人ヘッドコーチから「トレーニングが悪い、違うことを考えなさい」と告げられた。 ストレングスコーチとして積み上げてきたものを、全否定された。 「解剖学と運動生理学と運動力学を、もう1回全部勉強し直して。今ある体でどうやったらパフォーマンスが上がるんだろうって、いろんなエクササイズを作り始めたんです」
牧野 講平のストーリー画像 7
その試行錯誤が、今の牧野のトレーニング哲学の核になった。プレッシャーは外部からも、のしかかってきた。掲示板にボロクソに書かれ、自宅に手紙が届き、会社にはクレームが殺到した。誰にも相談できなかった。内部のことを外には言えない。自分の中で全部を抱え込んでいた。そしてその重さは、気づかぬうちに体に出ていた。 体重が80キロから60キロになった。20キロが消えた。 「地獄の3年でしたね。でも、振り返れば成長の3年でもあった」
勝ち負けの間近にいること
バンクーバー五輪を終えたとき、牧野は燃え尽きていた。「浅田を勝たせられなかったトレーナー」という烙印を一生背負うのだと、帰りの飛行機で思った。 アスリートから離れた。アーティストのツアーをサポートし、FNS歌謡祭の舞台袖に立った。「華やかではあった、別な意味で」と言う。だが、しばらく経つうちに虚しさが忍び込んできた。いくらトレーニングしても、歌がうまくなるわけじゃない。ダンスが見違えるほど変わるわけじゃない。自分がいることで、何かが変わっているのか分からない。 「俺って何のために存在してるんだろう、って」 その問いが、答えを教えてくれた。スポーツには勝ち負けがある。自分の仕事が結果に直結している感覚がある。「間近」で見たい。それが自分の本質なのだと気づいた。ちょうど同じ頃、複数のアスリートから声がかかっていた。 今、最も長い選手とは15年以上一緒にやっている。毎年の課題を一緒に追いかけ、トレーニングと技術の境界線を引かない。「トレーナーだから技術のことに触れないとかは全くない」と言い切る。解剖学と運動力学の学問的根拠を持ちながら、選手一人ひとりの固有性を見る。大谷翔平とダルビッシュが同じ投げ方をしないように、人体は学問を裏切ることがある。だからこそ現場の「間近に」いなければならない。 浅田真央の担当時代、牧野は全てのジャンプを毎日記録し続けた。何回跳んで、何回成功したか。選手の身体が刻む繊細なリズムを把握し、試合から逆算して状態をコントロールした。その過程は表に出すことなく、裏方の仕事として黙々と続けた。
牧野 講平のストーリー画像 9
現場という名の定位置
「絶対に現場に行くこと。トレーニング施設の中で完結しないこと」 若いトレーナーへの言葉は、そのまま自分が歩んできた道の振り返りでもある。コントロールされた環境でできたことが、試合会場でもできるとは限らない。相手も変わる、競技場も変わる、選手の感情も変わる。その不確定要素の全てを知った上で初めて、「間近」に立つ意味が生まれる。 5月のお台場に、夜の気配が忍び込みはじめていた。 インタビューの終わり際、牧野は少し遠くを見るような目になってこう言った。「今でもちょっと、アメリカに戻りたい気持ちはあるんですよ」 あのテロの夜に成田を発てなかった青年が20年後もまだその「間近」を求めている。勝敗の隣に立つ場所を、この男はきっとこれからも選び続ける。トレーニングラボの窓の向こう、東京湾の光が静かに揺れていた。
牧野 講平のストーリー画像 10
牧野 講平のプロフィール画像
牧野 講平
2003〜 森永製菓株式会社inトレーニング ラボ テクニカルディレクター
2008〜 日本オリンピック委員会 医科学強化スタッフ
2013〜 日本フェンシング協会 医学委員 トレーナー
2015〜 日本コンディショニング協会 理事
2021〜 株式会社R-body テクニカルアドバイザー
2024〜 日本トレーニング指導者協会 キャリア支援委員、広報・企画委員
2024〜 株式会社YumiCoreBody テクニカルディレクター

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