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彼女は、どんな時代も先頭を走っていた。
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LEGEND
小倉 シエカ
東京都

FOCUS POINT

健康・機能改善
ダイエット・ボディメイク
調整系・ボディワーク
競技パフォーマンス
1 痛み/不調の改善
2 運動機能の維持
2 ボディライン
3 ヨガ
3 ピラティス
3 ボディケア/ストレッチ
CATEGORY

ダイエット・ボディメイク

ボディライン
ボディラインの美しさを重視した指導
ダイエット指導
食事指導を含む減量のサポート
バルクアップ
筋肉量を増やすための指導
コンテスト対策
大会出場者向けの指導/サポート

健康・機能改善

姿勢/歪みの改善
不良姿勢・骨格バランスの最適化
痛み/不調の改善
肩こり・腰痛などの改善を目的とした対応
運動機能の維持
中高年に向けた健康トレーニング
リハビリ後サポート
怪我・手術後などの回復期支援トレーニング

競技パフォーマンス

瞬発力系の向上
アジリティやスピード系能力の強化
持久力系の強化
持続性パフォーマンスや疲労耐性の改善
競技特化トレーニング
スポーツごとの特性に合わせた専用指導
学生アスリート指導
成長期の運動能力向上と怪我予防の両立

調整系・ボディワーク

ヨガ
呼吸・柔軟性・心身のバランス向上
ピラティス
インナーマッスル・姿勢制御力の強化
ボディケア/ストレッチ
徒手による可動域改善やケア
産前産後ケア
妊娠期・出産後ののボディサポート

PROFILE

1979年長野県生まれ。JBBFボディフィットネスに出場し、東京・関東(初代)・東日本(初代)大会チャンピオンとなる。現在は手技とトレーニングを活用し機能改善を得意とするトレーナーとしてパーソナル指導を中心にセミナー活動も行っている。

LICENSES

NESTA PFTTTEA認定セラピストBESJピラティス など

MEDIA

書籍『キレイとかがやきをつくる 美ツイスト・ストレッチ』(高橋書店)雑誌『Woman's SHAPE&Sports(ウーマンズシェイプ) 』(フィットネススポーツ)
IDENTITY
トレーナーインタビュー
小倉 シエカのストーリー画像 1
「わたしはなんでも時代より少しだけ早いって言われるんです」
“フィットネスライフコーディネーター”という言葉を聞いたことがあるだろうか。 単に筋肉を鍛えるだけの時代はもう閉幕した。提唱したのは女性トレーナーの先駆け的存在である小倉シエカ。生活すべてを整えて、日常のなかに自然にフィットネスを溶け込ませていくという発想だ。トレーニングは“イベント”ではなく“ライフスタイル”なのだ。しかし彼女がその理念を打ち出した当時、まだ時代に少し早すぎた。なかなかこの言葉は浸透しなかったと語る。 「わたしはなんでも時代より少しだけ早いって言われるんです」 生活を変える。思考を変える。そのうえで体を変える。そんな全体最適のアプローチは今でこそ広く知れ渡るべき考え方だろう。 シエカの考えはつねに時代を先駆ける。たとえば“フィットネスモデル”という言葉を日本で初めて公言したのも彼女だ。 まだ“筋肉美”が女性にとって疑問視される風潮が色濃かった時代から、つねに“女性が美しく筋肉をつけること”の価値を、体現者として、そして伝道者として広めてきた。今まさに時代が彼女に追いついて来たのかもしれない。 シエカは自らの半生を振り返って、こう語る。 「いつも誰かが差し伸べてくれる、救いの手があったんです」 彼女の半生を紐解けば、いくつかの“救いの手”があった。
小倉 シエカのストーリー画像 2
怖いもの知らずの初舞台
シエカが初めてトレーニングジムの扉を開けたのは27歳のときだった。それまでは運動経験ゼロ。アパレル業界で忙しく働く彼女を悩ませていたのは、慢性的なむくみと疲労感、そして鏡の前に映る年々変化する身体のラインだった。セルライトが気になり脚は常に重たい。典型的な“身体からのSOS”だった。 「とにかく、運動不足を解消しなきゃと思ったんです。たまたま知り合いがいたからって理由で予備知識もなく中野のゴールドジムに入ったんです」 偶然がシエカの人生を変える。最初の“救いの手”はボディビル界の生ける伝説である小沼敏雄の手だった。 「小沼さんってレジェンドなのに、初心者にも本当に丁寧に教えてくれるんです。“教えること”が好きなんだと思います。喜びなんですよね、きっと」 運動経験もない普通の女性がジムに通い始めたのだ。小沼の教えもあってシエカはトレーニングの楽しさに目覚める。ジム通いの第一歩は知らぬ間に大きな一歩となっていた。 「どうせやるなら、期限を決めてちゃんとやりたいと思いました」 その期限として彼女が選んだのは“大会に出る”という選択だった。ジムの門をまたいでから僅か1年半後――彼女はフィットネス競技のステージへと立っていた。 「正直、知識がなかったからこそ、怖いもの知らずで出られたんですよ。今だったら色々考えてしまってムリかもしれない」 シエカが当時憧れを抱いていたのは世界的なフィットネスアイコンであるモニカ・ブラントだ。90年代から2000年代初頭にかけて活躍した女性フィットネス競技の象徴的存在だ。目指すべき目標の存在が彼女を一層トレーニングへと駆り立てた。 「大会に出るって話をしたのはジムのトレーナーにだけでした。私は期限がないと動けないタイプなんです。だからゴールを“大会”に決めました」 初心者だったからこそ怖さよりも情熱が勝ったのだ。この行動力こそが小倉シエカという存在の根幹にある。
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“普通”だからこそ光が当たった
今でこそ筋トレ女子という言葉がSNSを飛び交い、ウエイトを担ぐ女性が称賛される時代だ。だがシエカがトレーニングを始めた当時はフィットネスにおける“女性像”は今とはまったく異なるものだった。 「筋トレ=ムキムキで気持ち悪い。そんな時代でしたから」 偏見がまだ残っていた頃。女性にとって“美しい身体”とは“細い身体”でしかなかった。女性がフリーウエイトエリアに足を踏み入れること自体が珍しかった。バーベルを担ぐ女性など、もはや“異物”として見られることもあった。 「トレーニングがしやすい環境とは言えませんでした。でも逆に目立つことで、ライトを浴びることもありました」 注目は好奇の目でもあった。大会に出場していたのは当時ほとんどがフィットネス業界の関係者や指導者。アパレルというフィットネスとは無関係の本業を持ちながらステージに立つシエカは異質だった。 「“ダイエットがしたかっただけじゃないの?”なんて面白がられることも多かったです」 だがその“普通さ”にこそ価値があった。異業種のキャリア、そして運動経験ゼロから筋トレを始めた経歴。その等身大の背景が関心を持たれた。転機はゴールドジムの関係者からかけられた一言だった。 「せっかくなら筋トレの面白さを伝えてみない?そう言われました」 セミナーのオファーが舞い込んできた。彼女にとってその言葉は“救いの手”だった。筋肉を鍛えるためのノウハウよりも、シエカのような運動経験もなかった“普通の女性”が、実体験を話すことにこそ大きな意味があったと言う。 「誰かに“伝える”ってことが新鮮でした。自分の話が誰かのやる気につながることがあるんだって知りました」 やがて彼女は、もっと正確に分かりやすく伝えるために、学びを深めていくようになる。 「人に伝えるためには、まず自分が学ばないといけないんだって、強く思いました」 気づけば彼女はトレーナーとして“伝える人”の道を歩み始めていた。
小倉 シエカのストーリー画像 4
どん底で差し伸べられた“救いの手”
「壁がないときなんてある?という感じです」 シエカは淡々と語る。人生においてすべてが順風満帆で進むことなどない。目標を掲げて前に進もうとすれば、自分の力だけではどうにもならない出来事が必ずと言っていいほど起こる。その前提を受け入れることが彼女の生き方の土台になっていると語る。 「目標を持ってもっと良くしたいと思って生きている限り、心が持っていかれるようなことはあるんだと思います。昨日も今日も、細かいところでなら毎日悩んでいくんでしょうね」 日々、小さな壁は立ちはだかる。だが半生で直面した最大の壁は “人との別れ”だった。 23歳で父親を失ったことーー。そして長年連れ添ったパートナーとの別れーー。 心の支えを失ったとき彼女は初めて“人と別れることの辛さ”を知ったのだと赤裸々に語ってくれた。 ブランドアンバサダーの仕事が舞い込んだりと、フィットネス業界での仕事も波に乗っていた。だがそんなときにパートナーとの関係で深く傷付く出来事に直面したと言う。 「わたし、人を信じられなくなった。そう思う瞬間がありました」 シエカは体調を崩してしまった。眠れず、顎関節症を発症し、精神的に参ってしまい、自分がどこにいるのかすら分からなくなる日々を送る。 電車にも乗れず、セミナーの仕事は一時休業せざるを得なかった。そんなとき“救いの手”になったのが、仕事を通じて出会ったピラティストレーナーの菅原順二の存在だった。元ラガーマンで筋肉やパフォーマンスの本質を突く彼の明るさに触れて、彼女はピラティスの資格取得を決意する。 講義は早朝にあった。幸い誰もいない始発の電車になら乗ることができた。少しずつ、身体と心を整えるリズムが戻ってきた。筋トレとはまた違ったアプローチであるピラティスは呼吸と身体の軸を意識している。これがシエカの眠れなかった夜にも変化をもたらす。心が少しずつ落ち着いていき、レッスンに復帰すると自然とパーソナル指導の依頼も増えていった。菅原の流行やブームに流されず、本質を突く姿勢に共鳴したシエカは、ここでまた新たな学びを得る。壁に直面しても誰かの存在や新しい方法に助けられながら、自分自身を再構築できることを知った。
“救いの手”は広がっていく
振り返れば、人生の節目節目で“救いの手”を差し伸べてくれる人がいた。シエカはそのことを肯定的に受け止めている。 コロナ禍のときにも“救いの手”は差し伸べられた。彼女はただじっとしていることよりも、学べる環境に身を置くことを選んだ。そこで出会ったのが、今、シエカの所属しているアカデミーを主宰する杉山幹だった。 「幹さんは背中を押す力がすごい。でも意思決定は必ず本人にさせるんです」 アカデミーでは人がなにかを“学んでいくプロセス”を身をもって体感している。そこでは自ら選択し、チャレンジし、そして学びを得ることまでの一連のプロセスが自然に起きている。自発的に自己研磨ができる環境が整っているのだ。 「得た学びと経験をトレーナーとして伝えていくのが、私の役割です」 菅原と杉山から受け取った“救いの手”。それはシエカの中で確かな熱を持って、誰かに差し伸べる手へと変わっていく。フィットネスは身体を変えるだけのものではない。その中心には人と人を繋いで、想いを循環させる“縁”がある。
小倉 シエカのストーリー画像 6
継続の人は挑み続ける
「ある意味で、この仕事をしているからこそ出会えた人たちですから」 シエカの言うように壁はこれからも毎日必ず立ちはだかるだろう。それでも彼女は様々な実体験を通して学び続け、今でもなお知識と現場でのキャリアを積み重ねていく。そんなシエカにとって、目の前に立ち塞がっている壁は、自らを成長させるためのハードルに過ぎないのかもしれない。 「継続の人だよね、ってよく言われます。時間がかかりましたからね……」 日々の小さな壁を乗り越えてきた。だからこそいつも見果てぬ道が続いているのだ。彼女は言う。“できなくて当たり前”という前提があるからこそ、挑み続ける価値もあって、たとえ失敗しても前に進めるのだ、と。 「絶対に人を変えられるトレーナーでありたいです」 シエカはトレーナーとしての理念をそう語ってくれた。“救いの手”は伝播していく。 彼女の手もまた、誰かにとって“救いの手”となっているのだ。シエカは今日もジムに立っているーー。
小倉 シエカのプロフィール画像
小倉 シエカ
1979年長野県生まれ。JBBFボディフィットネスに出場し、東京・関東(初代)・東日本(初代)大会チャンピオンとなる。現在は手技とトレーニングを活用し機能改善を得意とするトレーナーとしてパーソナル指導を中心にセミナー活動も行っている。 

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