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この国の頂上には、決して滅びない恐竜がいる。
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LEGEND
木澤 大祐
愛知県

FOCUS POINT

ダイエット・ボディメイク
健康・機能改善
競技パフォーマンス
調整系・ボディワーク
1 バルクアップ
2 ボディライン
2 ダイエット指導
2 コンテスト対策
CATEGORY

ダイエット・ボディメイク

ボディライン
ボディラインの美しさを重視した指導
ダイエット指導
食事指導を含む減量のサポート
バルクアップ
筋肉量を増やすための指導
コンテスト対策
大会出場者向けの指導/サポート

健康・機能改善

姿勢/歪みの改善
不良姿勢・骨格バランスの最適化
痛み/不調の改善
肩こり・腰痛などの改善を目的とした対応
運動機能の維持
中高年に向けた健康トレーニング
リハビリ後サポート
怪我・手術後などの回復期支援トレーニング

競技パフォーマンス

瞬発力系の向上
アジリティやスピード系能力の強化
持久力系の強化
持続性パフォーマンスや疲労耐性の改善
競技特化トレーニング
スポーツごとの特性に合わせた専用指導
学生アスリート指導
成長期の運動能力向上と怪我予防の両立

調整系・ボディワーク

ヨガ
呼吸・柔軟性・心身のバランス向上
ピラティス
インナーマッスル・姿勢制御力の強化
ボディケア/ストレッチ
徒手による可動域改善やケア
産前産後ケア
妊娠期・出産後ののボディサポート

PROFILE

1975年1月9日三重県四日市市生まれ。ボディビルダー、トレーナー。16歳からトレーニングを始め18歳でコンテストデビュー。昨年2024年には国内の最高峰大会の日本ボディビル選手権において20回目の出場にして初優勝を果たす。

LICENSES

第70代 Mr.日本日本ボディビル選手権 20年連続ファイナリスト

MEDIA

書籍『ジュラシック木澤半生記ーーIRON NERVE 不屈の精神』(ベースボール・マガジン社)書籍『ジュラシック木澤式 超筋肥大トレーニング』(ベースボール・マガジン社)放送『サンデースポーツ』密着取材(NHK総合テレビジョン)DVD『木澤大祐 JURASSIC WORLD』(MMJ)
IDENTITY
トレーナーインタビュー
木澤 大祐のストーリー画像 1
「思い起こせば、負け続けたからこそ今の自分がある」
「ボディビルの神様が見てくれたんだと思いますーー」 少し照れながら、それでも半生を噛み締めるようにして木澤大祐は呟いた。 競技人生の集大成と謳って挑んだ2024年の日本選手権。多くの読者にとってまだ記憶に新しいだろう。ステージの中心には49歳にして主役となった男の最後の勇姿があった。込み上げる涙を鍛え上げられた逞しい腕で拭うその姿は、競技人生31年に及ぶ男の終着点にして、最高到達地点でもあった。 「思い起こせば、負け続けたからこそ今の自分がある」 優勝を決めた直後。煌々と灯るライトを浴びながら男は力強く言い放った。その言葉には勝者にして敗者の精神が窺えた。求めていた結果はずっと出なかった。耐えることのみでようやく辿り着いた日本一の座なのだ。 「ボディビル競技を続けて来れて幸せだった」 大仕事を終えたあとの達成感や安堵感に包まれながら男はそう述懐する。 劇的な初優勝にして有終の美。日本選手権からおよそ1年弱。やがて日本の頂へと続く31年の旅路はすべてのトレーナーにとって道標となるはずだ。
木澤 大祐のストーリー画像 2
ジュラ紀以前のジュラシック
「あの2年がなければ今の自分はいません」 栄光からは程遠い場所が木澤の出発地点だ。就職していたXYZスポーツクラブの突然の閉鎖。職を失った木澤は仲間とともに自らジムを立ち上げる決断をする。この頃まだ27歳。 近所の古びた倉庫を借りて天井から壁まで自分の手で改装した。いまだにそのときのペンキは壁に残ったままだと言う。 「当初はうまくいくはずだと希望に満ちていました」 フィットネスという大海原への船出。人生を賭けた挑戦だ。しかしまだ船の漕ぎ方も知らぬ若者の航路には暗雲がすぐに立ち込める。 3000万円という莫大な借金、思うように増えていかない会員、突然の仲間の離脱…。 会員の月会費だけでは賄うことができなかった。その一方で家賃や光熱費の固定費だけは毎月のように請求される。支払いを終えれば手元にはまったく金は残らなかったという。 「借金を返済するまでは石にかじりついてでも頑張るつもりでした」 木澤はトラックドライバーとして働き始める。もちろんそこで得た金銭はすべてジムの借金の返済に充てられる。航路を見失った船はもがくようにして前に進み続けた。まさに我武者羅だった。 「どうしてトレーニングなんかにハマってしまったのだろう。そう思ってました」 まだパーソナルトレーナーが一般的な仕事ではなかった時代。トレーニングを教えることで食べていく選択肢すらないのだ。 さすがの木澤にもトレーニングを憎む気持ちが生まれた。トレーニングをしていなければ借金をすることにもならなかった。過酷な労働に身を犠牲にする必要もなかった。苦しい思いなどしなくていいのだ。 木澤の労働は過酷だった。朝は6時からの出勤で退勤は夜の22時を過ぎる。残業はときに月100時間を超えていた。これは過労死の危険レベルを優に超えた数字である。一日中罰ゲームをさせられている感覚だった。 身体と精神が消耗してゆくのに反比例するように、木澤は取り憑かれるようにトレーニングへと向かった。 「あの頃は重労働とハードトレーニングのオーバーワークでした」 6時から22時まで仕事。すぐに家を出てジム到着は23時。トレーニングは翌日の2時にまで及んだ。木澤に残された睡眠の時間はわずか3時間のみだった。 前途の見えない中で肉体的にも精神的にも壮絶なサイクルの日々。木澤の強靭な身体をもってしても生命の危機を感じさせるほどだった。 セット間のインターバル中にふと意識が途切れることもあった。自分の意志とは無関係に寝落ちしてしまうのだ。気絶も同然である。この時期にインターバルを短くしたのは意識が飛ぶことを防ぐためだった。 またトレーニング中に失禁することもあったと言う。生理現象すらも狂うほどに木澤の身体は悲鳴を上げていた。完全にオーバーワークだ。カタボリックが常態化してしまいトレーニングとは裏腹にみるみるうちに身体は小さくなっていった。人生でもっとも苦しく厳しい時間だった。 それでもネガティブなことだけではない。極限の状態だからこそ精神力が鍛えられたのだ。とんでもなく過酷な試練は強靭な男に相応しい精神力を育んでいた。木澤は首肯しながら述懐する。 「あの2年がなければ今の自分はいません」 一度鍛え上げられた精神は時間が経っても決して衰えない。今なお“ボディビルダー木澤大祐”の根幹となっている。
木澤 大祐のストーリー画像 3
“6”という数字の呪い
2004年に木澤が日本選手権に初出場したとき、順位は6位だった。この調子ならば数年以内で優勝できる。そう確信していた。しかしその後に木澤を待っていたのは“6の呪い”だ。 6位、6位、また6位――。 いつしか木澤にとって“6”という数字は勝てないことを想起させるシンボルと化していた。 だが2017年の日本選手権。木澤自身も予想だにしない結果が待ち受けていた。42歳で挑んだ木澤は11位。大きく順位を落としてしまったのだ。受け入れ難い現実を突きつけられるような結果だった。 「木澤は終わったと言われてましたから」 40を超えたビルダーにとって順位は単なる数字ではない。年齢的にももう上り目はないだろうと周囲から言われた。急激に未来の可能性を狭められた気がした。ボディビルとは今の自分の価値を数字で突きつけられる残酷な世界なのだ。 「選手として引き際なのか?と自分に問いかける日々でした」 木澤はその年、自らのジムをオープンしている。言わずと知れたJURASSIC ACADEMYだ。トラック運転手として働きながら深夜に及ぶトレーニングをしていた20代、30代の頃。仕事で身体を酷使して睡眠時間すら削られ、リカバリーなど夢のような話だった。それがジムを持ったことで環境が整ったのだ。ボディビルダーとして必要なピースを揃えた木澤は翌年に順位を上げる。 「あんなに嫌いだった6なのにこんな嬉しい6はなかったです」 ときに愚直なほどにひたむきに己の身体と向き合い続ける男にとって、周囲の声など雑音でしかなかった。 またしても6位。だが今回ばかりは意味合いの違う数字だ。それは復活の6だ。
木澤 大祐のストーリー画像 4
効率時代にあえて遠回り
「僕らの時代は失敗して学んできました」 フィットネス業界のトップランナーとして若いトレーナーたちに向けてメッセージを尋ねてみた。すると真っ先に返ってきたのがこの言葉だった。 確かに情報が溢れている現代では効率的に成功する道が整っている。SNSを開けばトレーニングの理論や栄養管理法が目に飛んでくるし、より少ない時間で効率的に成果を出す方法は多くの人にとって惹句となっている。現代人は失敗する機会も少なくなっているのかもしれない。自分の頭で考えて実践する。そんなかつては当然だったプロセスは失われつつある。 「だからこそあえて遠回りでも実践してみることは重要なんです」 トレーナーが自分の身体を使って実践することは必要不可欠だと木澤は言う。知識とは単に頭に入れて憶えるだけではなく実践を伴って初めて実となるのだ。トレーニングの知識でどれほど理論武装しようともトレーナーの身体が伴っていなければ説得力がない。 「テニスコーチがお客さんよりテニスが下手では成り立たない。でもトレーニングの世界ではそれが起こるんです」 木澤はそう警鐘を鳴らす。試行錯誤が刻み込まれた身体には努力の痕跡が刻まれている。そんな人間の言葉なら自然と重みが増すものだ。身体こそがトレーナーにとってプロフェッショナルの名刺であり、プロフェッショナルの証でもあるのだ。
木澤 大祐のストーリー画像 5
ボディビルの神様
2021年に日本選手権2位。翌2022年は3位。そして2023年には再び2位へと返り咲いた。この3年間で木澤はトップ3の座を一度も明け渡すことなく、まさにボディビル界のトップランカーとして君臨し続けてきた。その安定感の裏には年齢や経験だけでは語り尽くせない進化がある。 「KENTOとの出会いは大きかったです」 KENTOとは栄養指導のスペシャリストであり、近年の減量や調整を科学的に支える存在だ。ベテランと呼ばれる領域に入ってもなお、木澤は自らをアップデートし続けている。 「糖質の摂取量を増やして身体の反応が変わりました。減量が楽になったんです」 ベストコンディションを作り上げる工程においてKENTOは不可欠なパートナーとなった。たとえば2023年のカーボアップでは、なんと餅を80個食べきるという驚異的なエピソードもある。もちろんただの大食いではない。ピーキング期におけるグリコーゲンの最大蓄積を狙った戦略だ。 大会出場歴31年――。 ベテランが新しいメソッドを柔軟に取り入れて限界のその先を見ようとしている。今なお進化を続けている。まさに鬼に金棒、否――木澤にKENTOだ。最強のタッグが頂点へと続く道をさらに太く力強くしていった。 そして迎えた2024年。 勝因について木澤は、「休養の取り方」と「栄養の重要性」をこれまで以上に意識したことを挙げている。だがその瞳の奥に宿る静かな感慨はもっと深いところにある。 「ボディビルの神様が見てくれたんだと思いますーー」 その言葉には語り尽くせない重みがあった。 30年以上、ひとつのことを追い続けてきた人間にしか見えない景色がある。汗と葛藤の日々を乗り越え、積み上げてきた一歩一歩の先にある景色――それが2024年のステージへと繋がっていたのだ。木澤の身体にはボディビルという競技の本質、ひいては強く逞しく生きることの美しさが刻み込まれている。
木澤 大祐のプロフィール画像
木澤 大祐
1975年1月9日三重県四日市市生まれ。ボディビルダー、トレーナー。16歳からトレーニングを始め18歳でコンテストデビュー。昨年2024年には国内の最高峰大会の日本ボディビル選手権において20回目の出場にして初優勝を果たす。

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